FC2ブログ
『酒井良』のさすらい日記
~明日やろうはバカやろう~
売れない一冊の本 ~Episode 3~
確か前回は親友のミラン・ベリチコヴィッチに出会った所で終わったはずだ。
今回はフットボールについて少し書こうと思う。

現地で感じたことや、経験したことを日本に落とし込もうと意気揚々と帰国したが、まぁ簡単にはいかない。長い期間を経て熟成されたセルビアのフットボールと同様に、日本のフットボールだって、情熱を持って作り上げた人達いる。わかっていたつもりでいたが、この成り立ちの違いが現実には想像以上にピッチの上に影響する。

僕が一年間アカデミーのアシスタントコーチとして在籍したセルビアのヴォイヴォディナというクラブは、セルビア国内では№3のクラブだ。日本で例えると巨人と阪神の2大勢力、ツルヴェナヅヴェヅタ(レッドスター)とパルチザンを追いかけるのがヴォイヴォディナだ。首都のベオグラードから車で一時間半、国内第二の都市、ノヴィサドにある。多様な民族、国籍を持つ人達が共存していた旧ユーゴスラビアだったが、内戦後はそれぞれの国として独立し、以前よりかは同じ民族が同じ地域に住むようになった。それでもヴォイヴォディナ自治区は今でも多種多様な民族が共存し、「寛容の土地」と言われている。創設から100年以上の歴史を持ち、アカデミーからヨーロッパ諸国のリーグへ12番目に多く選手を輩出している。ちなみに11番目はあのバルセロナだ。

この海外派遣の研修先を決める中で、ドイツという選択肢もあった。
世界のトレンドや最先端を求めるならば、ドイツの方が良かったかも知れない。
でも僕はセルビアを選んだ。

オールドサッカーファンなら記憶にあるかもしれないが、旧ユーゴスラビアは、「東欧のブラジル」と呼ばれ、大柄な体格からは想像できないような柔らかいテクニックと想像力溢れるプレーをする。トヨタカップでもレッドスターが世界一になり、90年Wカップではオシム監督が率いてベスト8へ進出した。ストイコヴィッチ、サビチェヴィッチなどテクニシャン揃いだった。

この国には最先端を追い求めるよりもっと深い何かがあるのではないか。
僕が過去に出会ってきた、旧ユーゴの人々の肩越しに何となく見える悲しみはフットボールとどう関わりがあるのか。
完全な直感ね。でも僕のこの直感はかなり信用している。直感歴42年。

2015年、年代別のセルビア代表はU-20ワールドカップでブラジルを破り世界一になった。この時のトレーニングメソッドをヴォイヴォディナ踏襲している。パス&コントロールと言われる技術練習に戦術要素を落とし込んだメニューが数え切れない程考えられていて、一年間滞在していたけど、同じメニューをみることがなかったほどだ。パス&コントロールの後はその戦術要素が組み込まれたポゼッションへと展開していく。ゴールまでの道筋が計算されていて素晴らしいトレーニングだった。

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では、このトレーニングをそのまま日本に持ち込むとどうなるのか。
真面目な日本人だから、さぞ正確に実践し完成度が増すのだろうか。

ではなかった。
前を向く意識や判断、駆け引きのない、わかりきったプレーになってしまう。
もちろんゴールへはたどり着かない。
では、なぜセルビア人はこのトレーニングで想像力溢れるプレーが可能になるのか。
たどり着いた答えはこれ。
セルビア滞在中のノートに書いていた。

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滞在中、ヴィヴォディナで400試合以上出場し伝説的選手であり、今はノヴィサド大学の教授を務めるミカ先生を訪ねこんな質問をしてみた。

『なぜセルビア人にはなぜ遊び心があるのか。』

『セルビアは歴史上、常に支配されてきた民族だ。だから、いつもどこかで何か抜け道を探していた。支配されながらも相手を嘲笑う気持ちを持っている。セルビア人は言っていることとやっていることがちがうんだよ。』

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セルビアは豚肉料理が食の中心だが、これはオスマントルコ帝国支配下時代に、ムスリムの人達が食べない豚肉なら奪い取られることはないから、という説もある。
旧社会主義の面影を残す団地の下で遊ぶ子ども達は、チャンバラごっこではなく、兵隊の格好をしたパルチザンごっこだ。
1999年にNATOの空爆でノヴィサドはドナウ川を渡す3つの橋すべてが落とされた。PTSDに苦しむ子どもも多かったという。
研修時、ヴォイヴォディナのオーナーは、ホテルを経営するオーナーだからしばらくはそのホテルに滞在する予定だったが、着いてみるとすでに他界していた。ホテルの一室で亡くなっていて他殺説もあるという。
試合前日のリラックスしたサッカーテニスで負け、悔しくて怒鳴りちらした14歳はその場でコーチに帰らされた。次に日はけろっとピッチにいたけど。
スペインに研修に行った人の報告を聞いていたら、燦々と輝く太陽がまぶしかった。あの薄暗さと埃っぽさは感じなかった。

セルビア人には長い歴史の中で培われた、ギリギリの真剣勝負の中に遊び心が潜在的に備わっているんだ。
これは残念ながら大多数の日本人には備わっていない。まれにはいるけどね。

フットボールというピッチ上で行われるスポーツの下には、歴史・文化・習慣・環境・教育・経済、ありとあらゆるものが土台となっている。

僕は今でもフットボールの最先端を追い求めている。
でも、実践するのは日本の文化で育った日本の子ども達だ。

それをどうやって取り入れ、馴染ませていくのか。
異質の経験が少しずつ馴化していく感覚がある。

と同時にあの薄暗く埃っぽい空気をまた感じたくなるのは、東欧好きの人にはわかってもらえるかな。
ではまた数か月後に。
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リアル道徳
去年だか、一昨年だか、小学校の道徳が教科化された。

個人的に興味があって、勉強会に何度か参加した。

道徳に成績が付けられるなんて、何が基準になるのでしょうか。いまだにわかりません。


先日、僕が監督を務めるU15の練習に行くと、何やら僕のブログの話をしている。

『なに?お前たち俺のブログ読んでるの?』

『読みましたよ!さ・す・ら・い・日記!』

完全にバカにしていますね…。

『ラインで回したから全員読んでると思いますよ!とーさんも、かーさんも読んでましたよ!』

恐るべし新時代…。

と思ったのですが、これはリアル道徳だと思い、練習前のミーティングで聞いてみました。

『俺のブログ読んでどう思った?』

『反対意見が多い中、自分の意見をはっきり書いていてすごい思いました!』

15歳にもなると、総合的に考えてバランスの取れた模範解答。


この学年を担当して一年半。常々言い続けている。

自分の意見を持ち、筋道を立てて論理的に主張しなさい。

そして、必ず相手の主張をを受け入れる空間も持ちなさい。

最初の頃、個人としてもチームとしても、うまくいっていなのに、何も言わない選手が多かった。

僕は物足りなかった。

何よりも大事なサッカーのはずなのに。


あれから一年半、彼らは大きく変わった。

自分なりの言葉で、相手の主張も受け入れながら、自分の主張を胸を張って言えるようになった。

たまに言い合いのケンカになるが、それも良い思い出になる。


ハーフタイムにベンチに戻ると選手達だけのミーティングが終わらない。

僕の作戦ボードも使いながら、主張をぶつけ合っている。

おーい。監督の僕にもしゃべらせてね。と。


自分の意見を主張する勇気を持ちなさい。

だからこそ、少数派の意見が悪者になる世の中であってほしくない。


練習後、選手達が何やらソワソワしている。

台風の影響で急遽試合時間が変更になったから、今から行けばホームゲームに間に合うという。

いつもは自分たちの試合があるため、野津田にはほとんど行けない。

チームのルールでホームゲームに観戦に行く場合は前日までに申請しなければチケットはもらえない。

だから、自分の小遣いで行くという。

ちょっと待ってろ、こんな時に登場するのか監督だろうよ。

クラブ関係者に事情を伝え、快く承諾を得て15人程度のアカデミー選手達が野津田へ向かった。

いつか自分があのピッチで戦うことを夢見て、苦しい戦いを続けるトップチームを応援するために。

試合終盤、今日の観客人数が発表された。

3009人だった。

翌日、彼らに、

『お前たちが行かなかったら3000人いかなかったな。』


返事の代わりに見せた、思春期の笑顔に胸が熱くなった。

追記
続超大型台風が上陸中です。皆さん身の安全を第一に。

さて、チーム名変更のについて書いたブログですが、論争が僕の想いとは違う方向に進んでいるようなので、もう少しだけ追記させてください。

僕にとって『FC町田』を残すことは、このクラブの源流を残すことだ。
FC町田出身だからではない。ここまでクラブを引っ張ってきた竹ちゃんマン、ファッションリーダー柏木、タカサイトウ、栃木の大田くん、職員一年生の土岐田くん、(順不同、他にもたくさんいるけどごめんね)はFC町田出身ではない。そんなことどうでもいいし、考えたこともない。みんな町田だ。

『ゼルビア』をクラブ名から外すという選択は、誰よりも辛いと思っている。
この十数年、一緒に戦ってくれた人達は僕の気持ちを理解してくれると思う。

これから先、このクラブは加速度的に大きくなるであろう。
僕もいつまでこのクラブにいられるか、サッカーの世界だからまったくわからない。

勝てない試合が続いた時に大事になるのは、チームに立ち戻る場所があるかどうか。
クラブが方向性を見失い、揺らいだ時に必要なのは立ち戻る源流があるかどうかだ。

荒野を開拓し、小さな種をまいて、成功と失敗を繰り返しながら花咲いたFC町田のスピリットは、いつの日かゼルビアの立ち戻る場所になる。

そんな想いでおります。
この件に関して、これ以上コメントすることはありません。
台風が去った後、また現場に戻り、思春期真っ盛りのかわいい息子たちと格闘します。


町田
先程、クラブの名称変更(案)が発表された。

このクラブを応援してくれている期間や年代や関わり方によって様々な捉え方があると思うから、賛成、反対によってクラブへの愛情の深さははかれない。

少年時代、町田のサッカーに育てられ、20代はそのサッカーで生計を立てることができ、30代は町田にプロサッカークラブを作り、将来子ども達にプレーしてもらうことを目標に全力を注いだ僕の捉え方を少しばかり書き記しておこう。

自分の生い立ちや町田に対する想いも大きく影響しているから、少々長くなる予感がするがお付き合いください。

僕が生まれ育った隣町は当時、少年野球全盛期だった。一学年4クラスの小学校に3チーム少年野球チームがあるくらいだ。それでも兄の影響で選んだのは野球ではなくサッカーだった。

決して上手ではなかったが、誰よりもサッカーが好きなサッカー少年だった。小学校5年生になると市の選抜チームにも選ばれ、近隣の選抜チームと試合をすることも多くなった。

その時に初めて「FC町田」に出会った。それまで僕の知っていた町田は、母親と買い物に行く大丸くらいだった。
FC町田の子ども達は、強くて速くて、なにより上手かった。そのド中心にいた選手が将来このクラブの社長になるなんてその時はまだ知る由もない。

小学6年の秋、初めて両親に自分の意志をぶつけた。俺は町田に行ってサッカーしたいと。隣町は今でこそJクラブもできて、中学生年代にもたくさんのクラブチームがあるが、当時は部活でサッカーをする選択肢しかなかった。部活に入らず越境してクラブチームに入るなんて両親にはイメージすらできなかったであろう。もちろん両親は大反対。泣きながら自分の想いを伝え何とか許しを得た。これが初めて自分の意志で取った行動だった。その後今日に至るまで、自分の進路や人生を決めていく上で、一度も親に相談をしたことがない。成功も失敗もあったが、事後報告をすべて認めてくれた親には感謝している。

こうして僕はFC町田に出会い、市選抜で出会った戸田和幸氏と共に境川を渡ることになる。その後歩んでいくサッカー人生は長くなるので割愛することにするが、30年後に境川でなく、ドナウ川の畔に住むことになるなんて思いもしなかったし、生ドナウ川を見た第一印象は「でっけえ川だな。境川とは比べ物にならんな。」だったことは、記しておこう。そして、重田、守屋、佐藤先生をはじめとする当時の指導者達に育てられた町田の選手達は、他の地域とは違う、独特の世界観を持って育って行ったと思う。一言で表現すると、それは『多様性の調和』ではないだろうか。

さて、本題に戻ろう。

今回、【FC町田トウキョウ】(案)という名称に変更する説明があった。
冒頭にも書いたが、捉え方は人それぞれなので多様性を調和するならば、賛成、反対でクラブへの愛情をはかるべきではない。

結論から言うと、クラブ名を発展的に変更するならば、この名称に賛成だ。

では、論点を二つに分けて考えよう。

一つ目は、「ゼルビア」を明記しない点について。
1998年4月、「FC町田」から「FC町田ゼルビア」へ変更された。これは、クラブが本気で町田からJリーグ入りを目指す意思表示でもあった。当時、Jクラブは親会社の企業名を外し、地域の名前と愛称を入れることが主流だった。清水エスパルス、鹿島アントラーズ、ガンバ大阪etc…。ゼルビアは創設者の重田先生が、町田市の木、ゼルコバ(けやき)と花、サルビアを合わせて作った造語だ。素敵なネーミングだよね。あれから20年、ゼルビアという愛称で地域に根差したクラブへと成長していった。ただ、いつの頃からか、「町田ゼルビア」と言われることが多くなった。僕は自分の事を紹介する時や、何かにクラブ名を書く時に「町田ゼルビア」と名乗ったことは今まで一度もない。「FC町田ゼルビアの酒井です」や「ゼルビアの酒井です」はあっても、「町田ゼルビアの酒井です。」と名乗ったことは一度もない。比較的クラブ名が長いから、呼称として呼ばれるのであれば、「町田ゼルビア」でまったく問題ない。但し、このクラブの源流は「FC町田」だ。「FC」と「町田」を分離することに大きな抵抗がある。東京というブランドを入れる(これについて論点2で)のであれば、クラブ名が長い短いの問題はあるが、残すのは「FC町田」であるべきだ。これはきっとゼルビアと名付けた重田先生もわかってくれると思う。

二つ目の「トウキョウ」を明記することについて。
このクラブに関わった時から、「町田から世界へ」を合言葉に子ども達の育成に携わってきた。今はジュニアユースの監督として子ども達を指導しているが、サッカーで人を育て、一人でも多くのプロ選手を育成し、世界へ送り出す。だからこそ僕は、境川の次にドナウ川を渡ったのだ。町田というローカルな地域にこだわっていたクラブが東京というブランドを入れると、町田を捨てたのか?と思われるかもしれない。もしそうだったら源流を消すわけがない。これは、重田先生がJリーグに上がるために、「ゼルビア」を付けた事と同じように、世界に打って出るための意思表示なのだ。そして、僕の知っている町田人は、東京でも神奈川でもない町田だぜ!と言いながら、都合の良い時に「東京」を使う図々しさを持ち合わせているんじゃない?(笑)東欧セルビアにいる時も、町田は日本のどこにあるんだ?と良く聞かれたが、そのたびに、エッジオブ東京だ。と答えていた。

これからも、ゼルビアはゼルビアだから、ゼルビアと呼んでもらっても構わない。無理やりエフマチと呼んでくれとも思わない。でも、このクラブは長い歴史を背負って前に進んでいく。現状維持は衰退への第一歩だ。

最後に、昨年サイバーエージェントグループの傘下に入るまで支えてくれた皆さんに心より感謝したい。身銭を切って、社員を説得して、家族も巻き込んで、絞るだけ絞ったタオルからもう一滴も出てこない。そんな状況だったと思う。

このクラブは、いつの日かアジアチャンピオンズリーグを制し、クラブワールドカップを制し、世界の頂点立つ。その時のスタメン8人はアカデミー出身者だ。(残り3人は僕が東欧で携わったセルビア人!)そして11番を背負うのは2列目からいかり肩でゴールに向かって飛び出してくるベテラン選手のはずだ。

そして、その時は満員の野津田で、『We Are ZELVIA!』と掲げてください。



2010/09/10(金) ブログより転送 強化育成部長 沖野等
2010/09/10(金)

早いもので、沖野さんが亡くなって、明日で1年になる。

スクール中、僕の目の前で倒れて、そのまま天国へ行ってしまった。

告別式が終わるまでの数日間は、まるで生きた心地がしなかった。

そのあとも、しばらくの間、昨日まで目の前にいた人が、

今日はもういない現実が、理解できなかった。


沖野さんは、ベルマーレ・アビスパ・フロンターレなどの育成部門で活躍した、

育成・普及のスペシャリストだった。

事務所では、沖野さん、竹中コーチ、僕の3人机を並べて仕事をしていた。

ぶつかることもあったけど、根本的な考え方はまったく同じだった。

そして素晴らしいことを、たくさん教えてもらった。



お金持ちの子も

そうでない子も

同じようにサッカーができる環境を作りたい

いつでも

だれでも

どこでも

サッカーができる環境

ランドセルを玄関に置いて

すぐにサッカーができる環境

町田ならできると思ったんだよ


沖野さんはそう言っていた。

沖野さんは、今のゼルビアをどう見てるかわからないけど。

これからも沖野さんの想いを胸に、普及活動に取り組みたい。

今の普及部のメンバーにも伝わっている。

時間はかかりますが、きっと素晴らしいクラブになりますよ。


それにしても、ゼルビアにはいろんなことが起こる。


でわ。
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