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『酒井良』のさすらい日記
~明日やろうはバカやろう~
町田
先程、クラブの名称変更(案)が発表された。

このクラブを応援してくれている期間や年代や関わり方によって様々な捉え方があると思うから、賛成、反対によってクラブへの愛情の深さははかれない。

少年時代、町田のサッカーに育てられ、20代はそのサッカーで生計を立てることができ、30代は町田にプロサッカークラブを作り、将来子ども達にプレーしてもらうことを目標に全力を注いだ僕の捉え方を少しばかり書き記しておこう。

自分の生い立ちや町田に対する想いも大きく影響しているから、少々長くなる予感がするがお付き合いください。

僕が生まれ育った隣町は当時、少年野球全盛期だった。一学年4クラスの小学校に3チーム少年野球チームがあるくらいだ。それでも兄の影響で選んだのは野球ではなくサッカーだった。

決して上手ではなかったが、誰よりもサッカーが好きなサッカー少年だった。小学校5年生になると市の選抜チームにも選ばれ、近隣の選抜チームと試合をすることも多くなった。

その時に初めて「FC町田」に出会った。それまで僕の知っていた町田は、母親と買い物に行く大丸くらいだった。
FC町田の子ども達は、強くて速くて、なにより上手かった。そのド中心にいた選手が将来このクラブの社長になるなんてその時はまだ知る由もない。

小学6年の秋、初めて両親に自分の意志をぶつけた。俺は町田に行ってサッカーしたいと。隣町は今でこそJクラブもできて、中学生年代にもたくさんのクラブチームがあるが、当時は部活でサッカーをする選択肢しかなかった。部活に入らず越境してクラブチームに入るなんて両親にはイメージすらできなかったであろう。もちろん両親は大反対。泣きながら自分の想いを伝え何とか許しを得た。これが初めて自分の意志で取った行動だった。その後今日に至るまで、自分の進路や人生を決めていく上で、一度も親に相談をしたことがない。成功も失敗もあったが、事後報告をすべて認めてくれた親には感謝している。

こうして僕はFC町田に出会い、市選抜で出会った戸田和幸氏と共に境川を渡ることになる。その後歩んでいくサッカー人生は長くなるので割愛することにするが、30年後に境川でなく、ドナウ川の畔に住むことになるなんて思いもしなかったし、生ドナウ川を見た第一印象は「でっけえ川だな。境川とは比べ物にならんな。」だったことは、記しておこう。そして、重田、守屋、佐藤先生をはじめとする当時の指導者達に育てられた町田の選手達は、他の地域とは違う、独特の世界観を持って育って行ったと思う。一言で表現すると、それは『多様性の調和』ではないだろうか。

さて、本題に戻ろう。

今回、【FC町田トウキョウ】(案)という名称に変更する説明があった。
冒頭にも書いたが、捉え方は人それぞれなので多様性を調和するならば、賛成、反対でクラブへの愛情をはかるべきではない。

結論から言うと、クラブ名を発展的に変更するならば、この名称に賛成だ。

では、論点を二つに分けて考えよう。

一つ目は、「ゼルビア」を明記しない点について。
1998年4月、「FC町田」から「FC町田ゼルビア」へ変更された。これは、クラブが本気で町田からJリーグ入りを目指す意思表示でもあった。当時、Jクラブは親会社の企業名を外し、地域の名前と愛称を入れることが主流だった。清水エスパルス、鹿島アントラーズ、ガンバ大阪etc…。ゼルビアは創設者の重田先生が、町田市の木、ゼルコバ(けやき)と花、サルビアを合わせて作った造語だ。素敵なネーミングだよね。あれから20年、ゼルビアという愛称で地域に根差したクラブへと成長していった。ただ、いつの頃からか、「町田ゼルビア」と言われることが多くなった。僕は自分の事を紹介する時や、何かにクラブ名を書く時に「町田ゼルビア」と名乗ったことは今まで一度もない。「FC町田ゼルビアの酒井です」や「ゼルビアの酒井です」はあっても、「町田ゼルビアの酒井です。」と名乗ったことは一度もない。比較的クラブ名が長いから、呼称として呼ばれるのであれば、「町田ゼルビア」でまったく問題ない。但し、このクラブの源流は「FC町田」だ。「FC」と「町田」を分離することに大きな抵抗がある。東京というブランドを入れる(これについて論点2で)のであれば、クラブ名が長い短いの問題はあるが、残すのは「FC町田」であるべきだ。これはきっとゼルビアと名付けた重田先生もわかってくれると思う。

二つ目の「トウキョウ」を明記することについて。
このクラブに関わった時から、「町田から世界へ」を合言葉に子ども達の育成に携わってきた。今はジュニアユースの監督として子ども達を指導しているが、サッカーで人を育て、一人でも多くのプロ選手を育成し、世界へ送り出す。だからこそ僕は、境川の次にドナウ川を渡ったのだ。町田というローカルな地域にこだわっていたクラブが東京というブランドを入れると、町田を捨てたのか?と思われるかもしれない。もしそうだったら源流を消すわけがない。これは、重田先生がJリーグに上がるために、「ゼルビア」を付けた事と同じように、世界に打って出るための意思表示なのだ。そして、僕の知っている町田人は、東京でも神奈川でもない町田だぜ!と言いながら、都合の良い時に「東京」を使う図々しさを持ち合わせているんじゃない?(笑)東欧セルビアにいる時も、町田は日本のどこにあるんだ?と良く聞かれたが、そのたびに、エッジオブ東京だ。と答えていた。

これからも、ゼルビアはゼルビアだから、ゼルビアと呼んでもらっても構わない。無理やりエフマチと呼んでくれとも思わない。でも、このクラブは長い歴史を背負って前に進んでいく。現状維持は衰退への第一歩だ。

最後に、昨年サイバーエージェントグループの傘下に入るまで支えてくれた皆さんに心より感謝したい。身銭を切って、社員を説得して、家族も巻き込んで、絞るだけ絞ったタオルからもう一滴も出てこない。そんな状況だったと思う。

このクラブは、いつの日かアジアチャンピオンズリーグを制し、クラブワールドカップを制し、世界の頂点立つ。その時のスタメン8人はアカデミー出身者だ。(残り3人は僕が東欧で携わったセルビア人!)そして11番を背負うのは2列目からいかり肩でゴールに向かって飛び出してくるベテラン選手のはずだ。

そして、その時は満員の野津田で、『We Are ZELVIA!』と掲げてください。



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2010/09/10(金) ブログより転送 強化育成部長 沖野等
2010/09/10(金)

早いもので、沖野さんが亡くなって、明日で1年になる。

スクール中、僕の目の前で倒れて、そのまま天国へ行ってしまった。

告別式が終わるまでの数日間は、まるで生きた心地がしなかった。

そのあとも、しばらくの間、昨日まで目の前にいた人が、

今日はもういない現実が、理解できなかった。


沖野さんは、ベルマーレ・アビスパ・フロンターレなどの育成部門で活躍した、

育成・普及のスペシャリストだった。

事務所では、沖野さん、竹中コーチ、僕の3人机を並べて仕事をしていた。

ぶつかることもあったけど、根本的な考え方はまったく同じだった。

そして素晴らしいことを、たくさん教えてもらった。



お金持ちの子も

そうでない子も

同じようにサッカーができる環境を作りたい

いつでも

だれでも

どこでも

サッカーができる環境

ランドセルを玄関に置いて

すぐにサッカーができる環境

町田ならできると思ったんだよ


沖野さんはそう言っていた。

沖野さんは、今のゼルビアをどう見てるかわからないけど。

これからも沖野さんの想いを胸に、普及活動に取り組みたい。

今の普及部のメンバーにも伝わっている。

時間はかかりますが、きっと素晴らしいクラブになりますよ。


それにしても、ゼルビアにはいろんなことが起こる。


でわ。
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変化すること、しないこと。
このブログもしれ~とアメブロに変えておいたら、ちょっと面白かなと思いましたがやめておきます(笑)

昨日発表になりましたが、株式会社ゼルビアはサイバーエージェントグループの一員となりました。

FC町田ゼルビアというクラブに所属している人間として、何かを書くということは、多少なりともクラブにも影響を与えることだと思うので、ここ数年込み入った内容に関しては書かないようにしていました。

今回は、このクラブに長く携わってきた人間の責任として、僕の個人的な意見を書かせて頂きたい。

内容に関しては、クラブの許可を得たわけではありませんので、責任はすべて僕が負います。


[変化すること、しないこと。]の続きを読む
沖野等
夏の終わりを感じる季節になると、毎年思い出す。

選手達の練習が夜間から昼に移行し、本格的にプロ化へ向かっていた頃、

沖野等という強化育成部長がいた。

2009年9月10日、僕と二人でスクール指導中、突然倒れ、意識が戻らないまま翌日息を引き取った。


2011年9月10日のブログより

そっちの世界でも、芋焼酎飲んでますか。

沖野さんが、僕の目の前で倒れて、

そのまま天国にいってしまってから、

2年になります。

ゼルビアも、あれから色々あったりして、

沖野さんだったらどう感じるかな、とか、

たまに思ったりします。

あの頃は、まだみんな会社員で、

僕も、沖野さんとたけさんと、

3人で机を並べて仕事をしていましたね。

“上に登っている時こそ、足元をしっかり見ろ”

上に登りつづけるクラブやチームをみて、

いつもそう言っていましたね。

“ランドセルを玄関に置いて、 

 すぐにサッカーができる環境を作ろうよ”

お金持ちもそうでない子も、いつでも誰でもどこでも、

サッカーができる環境が、本当の普及だ。

『町田ならできると思ったんだよ。』

そう言っていたのが印象に残っています。

そんなクラブができたら、間違いなく、

ゼルビアは強くなる。

2年前も、昨年と同じで、

この時期に、本加盟申請が通りませんでした。

お通夜の席で、息子さんに言われました。

『父は、選手にどう伝えればいいか、本当に悩んでいました。

 頑張っている選手達に、何て言えばいいのか…』

もしかしたら、今の現状を一番喜んでいるのは、

沖野さんかもしれません。

明日から、勝負の3ヶ月が始まります。

すべてが終わった時、

天国の沖野さんと一緒に笑えたら最高です。

明日の試合で、今年も去年と同様に、

選手会で、子どもたちを招待します。

はらっぱ・シート

これからも、ゼルビアは、

子どもたちを大切にします。

だって、次の世代の選手は、

今の子ども達だし、

クラブを支えるのも、サポーターだって、

今の子どもたちなんだから。



早いものであれから9年経ち、クラブの立ち位置も、僕の環境も大きく変わった。

引退後、トップチームや選手育成の道に進むのではなく、

4年間普及活動に全力を注いだのは、35歳まで現役でプレーし、少し勝負事に疲れてしまっていたこともあるけれど、

沖野さんの想いを自分なりの形にすることが、僕の中で一つの決着でもあった。

サッカークラブのアカデミーは、大きく分けると、“育成”と“普及”に分かれる。

普及とは、一人でも多くの子ども達にサッカーを始めるきっかけを与え、サッカーを大好きにしてあげる。

また、子どもからシニア層までサッカーの楽しさを味わえる場を提供することが役割だ。

簡単に言うと、トップチームや育成はブロックを上に積み上げていくの対して、普及は横に広げていく作業だ。

これがまた地味な作業であり、トップや育成とは違い、すぐに結果に結びつくことが少なく、評価も得にくい。

皆の笑顔を肴に夜ビールを飲むことがささやかな喜びだった。

町田という、東京の端っこの、人口が倍くらいの町に囲まれた中でどうやって存続し、存在価値を出していくのか。

その根底を支えるのは、普及だと今でも思っている。

お隣が10人中4人がサッカー少年ならば、10人中8人サッカー少年にしなけば同じ土俵で戦えない。

それはただ子ども達にサッカーを教えるだけでは実現できない。

保育園に園庭がなけばゼルビアのマイクロバスで送迎し、ボールと遊ぶ機会を作り、

大人はもちろんシニア層、女の子のクラスや障がい者にもサッカーを広げた。

そして、僕が普及(ゼルビアではひろめ隊と言う)を離れ、欧州に行っている一年で、もっと発展しブロックを横へ広げている。

ピラミッドの頂点(トップチーム)が更なる高みを目指し突き進んでいる今、裾野の広さがこれからのゼルビアの支えると思っている。

6月に僕が担当するFC町田ゼルビアの14歳を連れて、昨年一年間所属した、セルビアのヴォイヴォディナ・ノヴィサドが主催する国際大会に参加した。

この大会は、“ステファン・ネシツキー記念大会”と呼ばれ、現役中に交通事故で亡くなった名選手の功績を称え名付けられ36年間続いている。

初めて参加するクラブは、大会前に故人の墓を訪れることが習わしとなっている。

そうやってこのクラブは、第二次世界大戦、ユーゴ内戦を乗り越え、国が分裂し社会主義から資本主義に変わっても、104年に渡りクラブの哲学を守り続けている。

FC町田ゼルビアは、他のJクラブと比べると、まだまだ無い物ばかりのクラブだ。

でも、あの頃、沖野さんと描いていた10年後を遥かに超えた現実に中にいることは間違いない。

だから、今僕が描いている10年後を遥かに超えた現実があるのではないかとワクワクしてしまう。

そんな想いを噛みしめて、また明日もグラウンドに立ちたいと思う。

では。
We'll never stop challenging ourselves.